プロフィ-ル

はじめまして。ごゆるりとコーチのじゅんこです。

私が“ごゆるりと”になるまでのプロフィールや
今までの仕事の実績をお伝えします。

さらに近藤淳子ってどんな人?と興味を持っていただいた方は
私の60年間のプロフィールストーリーを読んでくださいね。

1.プロフィール

近藤淳子 Kondo Junko
1961年(昭和36年)2月生まれ
愛知県名古屋市在住

鹿児島県鹿児島市生まれ
転勤により、大分県大分市→静岡県静岡市→山口県小郡町(現山口市)→名古屋市

ストレングスファインダーTOP5
収集心 / 内省 / 最上志向 / 学習欲 / 未来志向

2.プロフィール概略 

損害保険会社に就職後、25歳で放送作家をめざして企画制作会社に転職。
TV番組やイベントの構成・演出・制作を行う。旅番組のディレクター。
御嶽山の星のイベント。「燃えよドラゴンズ」楽曲の制作と著作権管理。
名古屋港の商業施設「JETTY」の開発スタッフなど。バブルでイケイケどんどんの
絶頂期時代を過ごし、寝食を惜しみ女を忘れ邁進する。

バブル崩壊後は行政をターゲットにまちづくりコンサルタントとして各地に営業。
取材やインタビュー、ヒアリングを行った人数はのべ1000人以上。クライアントの強みを見つけ出し、想いをカタチにして伝える仕事に生きがいを感じる。

38歳で結婚、41歳で高齢出産。息子が幼稚園年長の45歳で義母の認知症介護同居がスタート。要介護2の義母の介護と幼・小・中・高時代の子育ての同時並行は15年目。
義母は1年半前に自宅で倒れ今は施設に入所。現在要介護5に。

子どもの小学校時代はPTA役員・子供会会長・絵本読み聞かせ委員・ママランチ幹事多数と日々大忙し。小・中・高校時代はさらに並行して、実母の保険代理店業務に
携わるも、営業スタイルに限界を感る。実母の引退とともに引き継ぎを断念し、終了。

自分自身も将来も見えなくなってさまよっていた頃、ストレングスファインダーを経て
コーチングに出会う。私が57歳、息子高1、義母88歳。ここから今の私につながるスタートとなる。「コーチングスクール」受講中にWebサイト「CUCURU」にて念願のWebライターとして活動開始(コロナ禍により終了)。

現在はコーチングプレイスのアンバサダーとして活動中。常に新しい学びを求め、外部の有料講座やコーチングプレイス内の数々の講座を受講し、
自分自身のアップデート中。

今年還暦を迎え、仕事や子育てや介護など、今まで積み重ねてきた長年の経験こそが、
“ごゆるりとコーチング”の礎となっている。

自分自身としては、「“好奇心”は最高のアンチエイジング」をテーマに、未知の世界である70歳80歳をめざして“好奇心”全開で進んでいる。

3.資格取得・実績・受講講座歴

《コーチング関係》
□資格
コーチングプレイス認定コーチ

□受講履歴
○コーチングプレイス内
「コーチング講座」修了  「マーケティング講座」修了
「パーソナルファンデーション講座」受講中  「資質のトリセツ」受講中
○ストレングス・ラボ
「ストレングスファインダー基礎講座Ⅰ・Ⅱ」修了
「ストレングスファインダー応用講座」修了

《ライター関係》
□実績
2020年1月~2021年7月 CBCテレビ女性向け総合サイト「CUCURU」ライター
*サイト終了のため記事閲覧不可
当時取材の記事はこちら>>>ライター岡崎市公式HP「岡崎ルネサンス」
取材用カメラは、Canon EOS KissX9を愛用

《企画会社関係》
□実績
「スターウィークin王滝(長野県王滝村)」イベント企画実施
「JR東海 あしたふた旅」TV番組制作
「燃えよドラゴンズ」(中日ドラゴンズの応援歌)CD制作補佐・著作権管理
「名古屋港 JETTY」広報宣伝(OPEN前後1年間)
「新城市ハイウエイオアシス構想」実行委員会運営
「多治見市陶磁器意匠研究所」非常勤講師(2年間)
「多治見市市民の歌コンテスト」企画制作   他多数

《その他》
□資格
2級ファイナンシャル・プランニング技能士

4.プロフィールストーリー

いまの私を知っていただくために
60年間の情報を積み上げたところ
長い長いプロフィールストーリーになりました。

誕生から小学校時代は、転勤族の宿命で各地へ

鹿児島市、大分市、そして静岡市へ

鹿児島市の両親の間に生まれるも、父親の仕事により生後2週間で大分市へ。

したがって鹿児島弁の両親のもとで育ったことでヒアリングはできるけど、
鹿児島弁を喋ることができないという鹿児島出身者になりました。

そして大分で入園して間もなく、静岡市へ転勤。
母は弟を宿した大きなお腹で電車移動を余儀なくされました。

中心地の一軒家へ入居し、弟が産まれ、新しい幼稚園へ行くも、
ほどなく郊外の社宅のアパートへ引っ越し。

たった2年間の幼稚園時代にもかかわらず、3つの園を渡り歩いたのです!

田んぼの中に建つ小学校の校庭からは、きれいな富士山が見えました。

全校朝礼の時の校長先生の言葉、
「こんなに素晴らしい富士山を学校から見ることができる皆さんは幸せですよ。」
その言葉はあの素晴らしい景色と共に、今でも鮮明に思い出すことができます。

山口県小郡町、そして名古屋での洗礼

冬に薄氷が張るだけでも驚くほど暖かい静岡から、
雪の積もる山口県小郡町(現山口市)へ。

引っ越したのは小学校2年生の真冬のことでした。

今でこそ新幹線の駅がありますが、当時はびっくりするほど田んぼの広がる自然な町。
都会からの転校生は、最初ちょっと浮いた存在でしたが、すぐにみんなと仲良しに。

田んぼの蛙の合唱や、れんげ摘み、町内対抗の運動会(大人は宴会!?)など、
のびのびと育った小学校時代でした。

6年生の春、間もなく修学旅行~と、指折り数えていたある日、
突然父から告げられた転勤!!!

友達と涙涙の別れの後、1週間後には名古屋の小学校へ。

そこは分校だったので、修学旅行は秋に実施とのことで、おあずけに。
都会の女の子は背が高くてお姉さんな雰囲気。
都会の女の子は早口・・・。

1学期の間、何とか慣れてきたのに、夏休みに入ったとたん、
同じ市内へ移動することに!!!

社宅の関係で、仮住まいのマンションから社宅に移るという
なんと無慈悲な大人の事情でした。

クラスメートとお別れの挨拶をすることもなく、
6年生の2学期から新たな小学校へ。

ついに4校めの小学校で過ごすことに。

しかも、転校先の小学校は修学旅行が春に終わっているという
残酷な事実に、うなだれるばかり。

こうして私は修学旅行を体験できないまま、
映っている写真の少ない卒業アルバムを持って、
名古屋の小学校を卒業したのでした。

ただ、この幼少期の体験のおかげで鍛えられたことがひとつ!

どんな新しい環境へ行っても、初めての人と会っても
自然に溶け込むことができるようになったこと。

この対応ができるようになったことは、大きな私の財産です。

中学、高校、短大、OL時代までの静かな時代

中学校3年の時、両親が「子供の学校のために」と家を建てたので、
激動の転勤生活からは解放されました。

今にして思えば、転校する私も大変だったけど、
母もとてつもなく大変だったことがわかるようになりました。

引っ越しの準備に転校の手続き、自分自身の人間関係のリセット・・・。
考えてみれば、ほんとうにお疲れ様でした。

私も、よくぞ小学校の頃グレなかったなあと思うけど、
これが意外と「私は転勤族の娘だから」と運命を受け入れていたような気がします。

そのあと地元の中学、高校、短大、就職と、絵に描いたような自然な流れ。

とはいえ、私の胸の内は「ここにいる私は私じゃない!!」と青春期のグルグルに
悩まされていました。

なんせ、中学から推薦で女子校へ(女子校自体、私に合わなかったのに)。

そのまま持ち上がりで短大へ(別大学の放送部に通っていたので全く思い入れゼロ)。

親のコネで就職(アフター5から飲み会で元気になる典型的な5時からOL)。

と、まあ努力も目標もないまま、モヤモヤしたまま、輝くはずの青春時代を
のっぺらぼうに過ごしたのでした。

ただ短大時代、名古屋大学内サークルが母体の「中日本学生放送連盟(SBF)」
入ったことが大きくその後の人生を変えました!!

ここで、番組作り、イベント企画、アナウンス、飲み会に出会って、
眠っていた私の「好奇心」が初めて大きく揺さぶられたのです。

25歳のトラバーユ ついに動き出す

20歳で就職した会社は損害保険会社の自動車課の業務。
自動車保険の申し込み証券をチェックするのが担当業務でした。

入って3日で後悔し、辞めたくなりました。

完璧に向いてない仕事だったのです!!

とはいえ、石の上にも3年。すぐに辞めるわけにはいかないと我慢し、
アフター5(死語)や花金(これも死語)に精を出す飲み会好きのOL時代。

ところがチヤホヤされるも数年で終焉。
若い新人さんが入ってきてあっという間に飲み会にも行きづらい状態に。

「25歳はXmasケーキ(死語です)」と言われる時代でした。

その24歳の夏、地元のTV局を退社して新進気鋭の制作会社を立ち上げた
ばかりの社長と出会い、運命は大きく転換!

周りが結婚退職する25歳の4月に
私はその会社にトラバーユ(=転職:懐かしい~)したのでした。

時は1986年。

世の中がバブル時代へと突入する時代の出来事です。

無我夢中で駆け抜けた仕事三昧の日々(25歳~39歳)

25歳から39歳まで大好きな仕事仕事で過ごしました。

《前半》番組制作・イベント制作・飲み会も絶好調!!

少数精鋭の制作会社だったので、「何でもやります!」と業務は多岐に渡りました。

何でもやってみたい私にとって、次々と新しいジャンルにチャレンジできる環境は、
楽しくて面白くて時間を忘れて仕事するには最高でした!

改めて見つめなおすと、仕事14年の中で仕事の種類が大きく二つに分かれました。

《前半》は25歳から32歳までの番組制作やイベント制作時代です。

イケイケドンドンのバブルと呼ばれる時代が、
ちょうど25歳の終わり頃からから30歳になった頃までピッタリ当てはまります。

この頃はテレビ局との仕事が中心でした。

街ネタ情報を、名古屋にある各放送局に提供する仕事から始まり、
名古屋市の街の良さを紹介する5分のミニ番組のディレクターに。

30分の旅番組では、最初の頃はデスクとしてスケジュール管理や
出演するタレントさんの出演交渉などを経てアシスタントディレクターに。

1ヶ月の半分以上は各地のロケで家にいませんでしたが充実の時間でした。

この時に、情報を集めて取材してカタチにするという
私の得意分野の基礎が作られていったのだと思います。

発注される大中小のイベントの制作の中でも様々な業務があり、
アシスタントプロデューサーとしてのスケジュールや予算の管理、
加えてディレクターとして運営などに携わりました。

その中でも特に1987年から3年間担当した『スターウィーク』という
長野県王滝村で行った名古屋市科学館とのコラボイベントの実施が
一番記憶に残る仕事です!

『燃えよドラゴンズ』といえば、
誰もが知っている中日ドラゴンズの応援歌!

この楽曲の担当もしていました。
毎年出すCDの制作補佐や、楽曲の著作権管理などが主な内容です。

《前半》の最後、30歳前後には名古屋港水族館のオープンに合わせた
商業施設「JETTY」の開発に携わり、主に広報宣伝を担当しました。

とにかく、勢いで毎日過ごしていた記憶しかありません!

そして、こんなに忙しいけど毎晩のように飲んでいたような・・・。

名古屋の繁華街、栄で深夜2時にタクシーチケットを振り回しても
道路沿いにズラリと同じような人が等間隔で並び、
タクシーに乗るまで30分近く待つ・・・という伝説のような事態も
リアルで経験しました。

バブルの景気の良さを体感した時代です。

ただ、仕事が忙しすぎてあまり遊ぶ時間を享受できなかったのが残念!!

《後半》街おこしコンサルタントとしての営業と制作の日々

バブル時代も終わった32歳頃から、行政との仕事にシフトしていきました。

「街おこし」「まちづくり」という言葉が聞かれるようになり、
その街の良さを発掘しながら、地域の人も巻き込んで活性化を図るための
企画書を創りあげてプレゼンテーションしていくという仕事が中心になりました。

各自治体へ営業に回り、コンペに参加し、仕事を決めていきました。

ある時は100ページ近い企画書を作り、
ある時はシンポジウムを開催し、
イベントを行ったり、
会議を重ねた中から新商品開発(陶磁器業界)をしたり、
全て自分が窓口なので、金額交渉も含め、手応えは十分過ぎるほどでした。

今になって考えてみれば、この怒濤の仕事時代に財産となったのは
のべ1000人を超える人々の取材、インタビュー、ヒアリングの数々です。

職業も年齢も多岐にわたり、様々な考えを持つ人々から、
その都度の目的に合わせ、考えていることや過去の思い出、得意なこと、
提案したいことなど、それぞれの想いを聞き出していました。

この仕事の積み重ねのおかげで、その人や街(対象)の持っている良さを発見して、
言葉に表現していくという作業が、日常的に身についていったのだと思います。

趣味も三昧三昧!

もともと好きだったものや、仕事で出会って興味を惹かれたものなど、
趣味はどんどん広がっていきました。

“現代アート”好きは、「デザイン博覧会」やアート&テクノロジーの美術展、
アーティストとコラボした地域活性化の仕事などを通じて、
新たな驚きと発見から、どんどんジャンルが増えていきました。

“陶磁器”への興味も、多治見市で美濃焼の仕事したことによって、
多くの窯元や作家さんなど、焼き物に関わっている人たちと
楽しい交流したことに始まります。

テーブルコーディネートにこだわるなど、今でも生活の中心になっています。

“映画”“ミュージカル”はもともと好きでしたが、
“演劇”は、名古屋を代表する小劇団を仕事を通して知ってから
さまざまな芝居を見るようになりました。

それは、30歳で“能”との出会いにつながり、
そこから10年近く習うというところに発展します。

海外旅行は、香港・インド・ニューヨーク・パリ・ロンドン・イタリア・
スペイン・トルコと、美術館とグルメと買い物の旅を堪能しました。

日本酒・ワイン・焼酎などのアルコールは、趣味というより生活の一部。

気がつくと全てが枝葉のように広がって、私の大切なエネルギーになっています。

38歳で結婚、40歳で不妊治療、41歳で出産! 

思い立ったらすぐ結婚

さて、楽しく充実した毎日を過ごしているうち、気づくと35歳を過ぎていました。

友達はみな子育てに忙しく、結婚式に呼ばれることもなくなりました。

毎年1回の海外旅行はツアーに一人で参加が当たり前。

“おひとりさま”な毎日も充実し、家族と同居でぬくぬくした時間の積み重ね。

ところが、37歳にもなろうかとしたある日、
40歳までに子供を産まなくちゃ!!」と突然思い立ちます。

それからは早かった!

既に20回近く行っていたお見合いに本腰を入れ、38歳で結婚に至ります。

あれ?子供ってすぐにできないの?

39歳で仕事に区切りをつけて、今で言う妊活に入りましたが音沙汰ありません。

考えてみれば40手前にもかかわらず、すぐにできると思ってること自体のんき過ぎます!

そこで40歳の誕生日を迎えた時、二つのことを始めました。

不妊治療と宅建(宅地建物取引士)の資格取得のための勉強です。

不妊治療は誕生日の2月から。

宅建はその春の4月から専門学校に通い始めました。

受験勉強を経験していないことにコンプレックスを持っていたことと、
「資格」に憧れたことと、
妊娠することで頭がいっぱいの自分の気をそらすためです。

結果の出た妊娠検査薬を涙と共に捨てる日々が続いた7月のある日、
ついに待望の妊娠がわかります!!
と、同時に襲われる睡魔。
眠り悪阻だったんです。

10月の宅建試験を前に、7月から9月まで眠い日が続きました。
やっと悪阻が抜けたのは試験の2週間前!お腹も目立ってきた頃です。

試験は、無事ボーダープラス1点あたりで合格!

その数日後、安産祈願に行き犬の帯を巻きました。

やっとここから、妊婦生活に入ったのです。

正真正銘の高齢出産

41歳2ヶ月で、長男出産。

予定日より2週間遅れたため、入院して陣痛促進剤投入。

陣痛の中、子供の心拍が低下したとのことで緊急帝王切開に!

どうやら、へその緒が首に巻き付いたとのことで九死に一生を得ました。

高齢出産ながら、親子とも無事で感謝感謝です。

ちなみに宅地建物取引士の資格を得るためには、
必要な試験がもう一つありましたが、
出産後の忙しさのため、受けずじまいで今に至ります。

しかし、勉強をすれば結果がついてくるという手応えを初めて感じ、

その自信はその後の私を支えていると確信しています。

40代~50代は新しい体験ばかりなり

子育てと至福のママランチ

子育ては、ママランチとセットで楽しく過ごしました。

息子と同い年のママたちは、当然一回り下の若い人ばかり。
上にお兄ちゃんお姉ちゃんのいるママでも5つ以上若い方。

中には、おばあちゃんが私と二つ違いというママも!!

みんな元気で、子育て情報も多くて、年上の私のことも受け入れてくれて、
自分まで若くなった気分でお喋りは尽きませんでした。

幼稚園、小学校、中学校、高校と共に子供を見続けたママ。

いくつかのお稽古ごと、幼児教育、レゴ、空手で一緒になったママ。

小学校の読み聞かせ、PTAの役員、子供会役員で一緒だったママ。

仕事をしている間おひとりさまだった私には、
ママたちと子供の成長や勉強の悩み、家のこと、流行りのグルメ、
いろんなことを一緒にお喋りできる青春時代のような時間でした。

実母との保険の仕事(44歳~58歳)

実家の母は個人で保険代理店を営んでいました。

営業力が抜群で25年もの間、常に上位に位置するという実力者です。

私は子供を産んでから、母の後継者となるべく代理店資格を取り、
一緒に仕事をすることになりました

より強力な武器を持とうと、FP2級(2級ファイナンシャル・プランニング技能士)
の資格も取得しました。

顧客管理の観点から、母のお客様の中から私につながる方をピックアップして
『300人ご挨拶プロジェクト』を立ち上げました。

300人全ての方に、訪問もしくはお電話で直接ご挨拶をするという内容です。

母の脳内にある全ての方の情報をヒアリングしてまとめていき、
その中からセレクトしていくというのは、やりがいのある作業でした。

これはストレングスファインダーの資質1位の“収集心”の成せる技です!

県内の方は全て車で運転して回り、他県の方は電話をするという
営業の極意を地道に行っていきました。

保険の新商品やさまざまな事例についての勉強会にも参加し、
14年近く頑張ったでしょうか。

残念ながら保険の営業に関しては力が及ばず、
母が高齢で引退するのに伴い、私も事業継承しない(できない)決断をし、
私が58歳の時、保険の仕事は終了したのでした。

義母の介護同居がスタート(45歳~58歳)

介護同居が始まったのが2006年。私は45歳。義母は76歳。息子は4歳。

☆この経験はブログの「楽するヨメの介護日記~開き直ったもん勝ち~」
随時連載中なので、ぜひそちらの方で赤裸々な体験と感想をご覧下さい☆

義母が救急車で運ばれてそのまま施設に入居したのが2019年。
私は58歳。義母は89歳。息子は17歳。

考えてみれば、子育てと介護と仕事と20年近く慌ただしく過ごしていたんですね。

57歳は助走 58歳ふたたび動き出し 59歳で足踏みに

変わるときは一気に!!

57歳の夏、私のこれからが変わる出来事が二つありました。
息子が高一、義母が88歳、介護13年目の年です。

一つ目は、コーチングプレイスの「コーチングスクール」に入ったことです。

☆詳しくはブログの「コーチング」シリーズで詳しくお話しています☆

二つ目は、実母が保険代理店から引退することを決めたことです。

さらに私は秋に中日文化センターの「Webライター養成講座」に入ったのがご縁で
CBCテレビが運営する東海エリアに密着した女性向け総合サイト
『CUCURU(ククル)』のWebライターとして採用されました。

さまざまなことが、一気にスタートを切ったのです。

・・・ところが、59歳になった2020年2月からコロナ禍になり、
順調に50記事ほど書いていた『CUCURU』が、
7月末でサービスを終了してしまいました。

Webライターとしての活動が思わぬところで足踏み状態になってしまいました!

60歳!ついに還暦を迎えて